6月提出のレポートをやっと書き始めた。締め切りは20日。まだ余裕があると思ってしまうのは学生時代から変わらない。
5月の課題は締め切りの1週間以上前に郵送した。それで少し安心したせいか気が緩んでいるのも事実。
学生時代のテスト前になると漫画や過去の古いアルバムなどを開きたくなるけれど、今の私の状態はまさにこれ。ちょうどレポート課題のテーマに重なるところもあり、昔の日記や過去のブログ記事を読み返していたらずいぶん時間が経っていた。
過去のブログ記事を読んでいて、福祉の勉強をしている学生さんに「どうして製薬会社をやめて社会福祉士になったんですか?」と聞かれたことを思い出した。
そのときはあまり詳しく答えられなかった。
今もうまく伝えられる自信はないけれど、今回は誰かのためにというよりも「自分」のためにこの記事を書きたいと思った。
過去の「自分」と未来の「自分」に向けて。
『私が精神保健福祉士の勉強を始めた理由』
「A心療内科あしかけ15年になります」
元旦に届いた年賀状には見慣れた文字が書いてある。診断書を書いてもらうときによく見たちょっとクセのある文字だ。
先生がA心療内科で勤務している15年のうち、私は約10年間お世話になっていた。
早めに出した先生への年賀状には確かこう書いたはず。
「4月から精神保健福祉士の資格取得に向けて勉強を始める予定です」
年賀状で宣言したとおり、4月には分厚い教科書が何冊も届き勉強がスタートした。
学校へ数日間通って勉強する「スクーリング」をとても楽しみにしていたけれど当然延期。ただレポートの締め切りは変わるはずはなく、毎月20日までにいくつかのレポート課題を書いて郵送しなければならない。
ちなみに6月の課題は「精神疾患とその治療」。
2つ目のレポート課題が「精神障害を抱える患者の対応について」で、それを書きながら先生にお世話になった10年間のことを思い出していた。
先生に出会ったのは2007年。ちょうど私は転職したばかりで製薬会社でMRとして働いていた。
「なんとなく調子が悪い」
「これは放っておいたら悪化する」
抗うつ薬の営業もしていたので当然薬や病気については知識があった。でもそれ以上に過去の経験から予防のために通院した方がいいなと感じていた。
問診票には過去の受診歴や休職歴などを詳しく書いた。心療内科の受診はこれが初めてではない。もともとは前職の新聞社勤務時代に発症したことがきっかけだった。
新卒で入社した新聞社では広告営業の仕事をしていたが、2年目の6月から仕事に行けなくなってしまった。
会社に入ると体が震えて涙が止まらなくなり、自分でも何を言ってるのかわからない状態。当然上司からは病院へ行き休職するよう指示が出た。
「薬を飲んで数ヶ月休めば会社に戻れる」
毎日仕事に行くのが嫌だったはずなのに、しばらくするとそんな風に思うようになった。でもまた復帰が近くなると仕事のことを考えて眠れなくなる。その繰り返しだった。
新聞記事の下の誰が見ているかわからないような小さなスペースを売るために、ノルマと締め切りに追われ走り回る毎日。夏の暑い日も大雪が降る日も飛び込み営業をしてひたすら頭を下げ続けた。
もちろん楽しかった仕事もある。同じ部署で働くデザイナーの同僚のことを私はとても信頼していて、彼女と一緒にする仕事はいつもわくわくするし充実していた。
でも2年目の春に社内でいろいろあってプツリと糸が切れてしまった。
会社に在籍はしていたものの外に出ることができずほとんど家で過ごしていた。営業をやっていたのに人と会って話すのがこわくなり外出は通院のみ。
自分が壊れていく中でも必死に何かを保っていようと、休職する前に始めたブログに狂ったように文章を書き続けた。
当時投稿したものの一部にはこんなことを書いている。
「病名すらわからず自分が病気だという自覚は持てない。
でもおかしくなってしまったということだけは確か。私は前と同じように笑える?
会社に戻って仕事がしたい。今はそうはっきり言える。
きつくて悔しくて何度も泣いたけど、人前では笑顔で頑張れた自分がいた。私、会社に戻れるのかな・・・・。 」
誰かに向けてというよりも自分に向けてただ書き続けていた。締め切りに追われながら仕事をしていたときよりもずっと孤独で苦しい時期だった。
約10ヶ月仕事をお休みしたが結局会社には一度も戻ることなくやめた。書類関係を郵便で送って手続きが済むと私はニートになった。
「何がしたいのかわからない。何も考えたくない。ただ眠りたい」
無職になったばかりの頃はいつもそう思っていた。
だが桜が散って夏の匂いを感じ始める頃には外に出られるようになっていた。友人と会って話したりドライブしたり丘の上から夕陽を見たり、毎日そんなことをしながら生活していた。
何気ない日々の暮らしが当たり前ではないことをそのとき知った。
秋になると地元での通院は終了した。
医師から就労許可も出て社会復帰に向けて動き始めることにした。もちろんいきなりフルタイムで働くことは難しい。まずは短期バイトからスタートして少しずつ転職活動も始めた。
そして何社か採用試験を受けて決まったのがある製薬会社だった。
友人たちは「きついからやめた方がいいよ」と心配してくれた。新聞社時代に営業でボロボロになった姿を知っていたので、その言葉は当然かもしれない。
私自身それは1番よくわかっていて再発しないように気をつけていた。
確かに知人も友人もいない新しい土地で新しい仕事を始めることに不安はあった。でもそれ以上に高揚感があった。
今思えばそのテンションで最初の数ヶ月は乗り切れていた。
先輩が紹介してくれた心療内科へ予約の電話をいれたのは、テンションだけで毎日を乗り切るのが難しくなってきた頃だった。
過去のことを振り返りながら新聞社でのことや今困っていることなどを伝える。
「MRなら薬のことはわかるだろうし」と通院を始めて1年くらいは診察時間も短くあっさりしたものだった。私も心療内科に対してはとりあえず薬を出してくれればいいや、くらいのスタンスだったと思う。
先生の診察が私にとって大きな意味を持つようになったのは、先生と出会って2年目のことだった。
リーマンショックの影響で会社の雰囲気が変わったり、プライベートでは恋人の両親に挨拶していて今後のことを考えて悩んでいた時期だった。
製薬会社の仕事は帰りが遅いし土日出勤も多い。全国転勤ありで実際に他支店への転勤の話も出ていた。
当時はまだまだ女性MRは多くなく、結婚するとやめていく人がほとんどだった。
就職氷河期世代で就活でボロボロになって、やっと入社した会社では心身のバランスを崩して働けなくなって、そこからなんとか這い上がってつかんだ「誰もが名前を知っている大手企業の正社員」という身分。それを簡単に捨てる勇気はなく何ヶ月も悩んだ。
でも悩んで悩んで結局キャリアチェンジすることにした。
「社会福祉士か精神保健福祉士になろう」
結婚しても続けられるという条件で仕事を探していたので、はっきり言ってあまり前向きなキャリアチェンジとは言えない。
ただ高校時代に「将来カウンセラーか医療ソーシャルワーカーになりたい」と書いていて、それは心の中でずっと引っかかっていた。
精神的に弱く、過去に休職経験もある私が人の悩みを受け止められるのか・・・。社会福祉士も精神保健福祉士も生活に困難さを抱えた人の話を聞かなければならない。
通信制の大学や専門学校の資料を大量に取り寄せていたが、それでもまだ一歩踏み出せずにいた。
そんなとき背中を押してくれたのが先生だった。
『あなただからこそ、患者さんの気持ちがわかるんじゃないかな?』そう言って精神保健福祉士の仕事を勧めてくれた。
病気を経験して良かったとは今でも思えない。でも先生の言葉でマイナスの自分も少しだけ肯定できる気がしたし、それくらい優しくて力強い言葉だった。
結局私は精神保健福祉士ではなく社会福祉士の道へ進んだ。社会福祉士の方が仕事の幅が広く求人も多いという理由で。
でも本当の理由は違う。精神保健福祉士になったら目の前の人に過去の自分を投影してしまう気がしたし、当時の自分を思い出して再発するのが不安だった。
社会福祉士になってからは仕事でもプライベートでもいろいろありすぎてボロボロになることも多かった。でも先生の前でたくさん話して、たくさん泣いて、たくさんアドバイスをもらうと心がふっと軽くなって、診察室を出るときにはいつもちょっとだけ笑顔になれた。
社会福祉士になって6年目にパート勤務になって働き方を変えてからは、精神的にも落ち着いてきて薬を飲まずに生活できるようになった。その頃には診察室では「自分」のことよりも、発達障害や知的障害の人との面接技法や精神分析についてなど仕事に関するアドバイスを受けることが多くなっていた。
医師と患者の診察というよりもまるでゼミで指導を受けているような不思議な時間だった。
妊娠して安定期に入ると私は心療内科の通院を終了した。10年間もお世話になったので最後はしんみりするかと思ったけれどすごくあっさりしていた。そのことがおかしくて思わず笑ってしまって先生には不思議な顔をされた。
通院終了してから初めて迎えるお正月に先生に年賀状を出した。
年末最後の診察でいつも「今年もありがとうございました。また来年もよろしくお願いします」とあいさつするのが恒例だった。年末のあいさつの代わりに年賀状に近況を書いて送ることにしたのだ。
今年でその年賀状のやりとりは3度目になる。
「4月から精神保健福祉士の資格取得に向けて勉強を始める予定です」
年賀状用に選んだ家族写真の隣に小さく書いた。
ここに書いた過去の出来事以外にも心の傷がたくさんある。診察室で先生にしか話せなかったこと。でも少しずつ信頼できる人にそれを話せるようになってきていた。
ここまでくるのに11年。やっとスタートラインに立てた気がした。
『私が精神保健福祉士の勉強を始めた理由』は「当事者だからこそわかる患者さんの気持ちに寄り添って適切な支援へ繋げるため」そして「過去の自分も肯定するため」。
先生が患者だった私にかけてくれたたくさんの言葉はこれからも私の軸になっていく気がする。
『医者は患者の味方。そのためにまわりに環境調整をお願いする』
『自分に余裕がないと人の支援はできないよ』
方向性を見失いそうなときはいつも先生の言葉を思い出す。
レポート提出は11月まで続く。
社会人1年目のときとはまた違った締め切りに追われているけれど、今はとても充実しているし孤独ではない。
また福祉の現場に戻るときに自信をもって仕事に向き合えるように、家事と育児のすきま時間に締め切りを気にしながらこれからもレポートを書いていこうと思う。